こんにちは。
最近は個人的にいろいろあったりなかったりで、すっかり更新サボっていてすみません~!
気付いたらずいぶん寒くなってきましたね。体調管理をしっかりしていきましょう!
さて、昨日11月18日(土)は、袴田家に初めてお邪魔させていただくのと、第72回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)に参加させていただくということで、浜松へ行ってきました!
いざ、浜松へ。
浜松駅に降り立ったのはおそらく初めて。
同じ県内とはいえ、静岡は横に長いので浜松はすごく遠い。在来線で2時間近くかかる距離だ。
ついでに言うと、静岡県内は、昔の駿河国、遠江国、伊豆国の名残なのか、場所によって文化も方言もかなり違い、県民性といった統一感があまりない。
特に静岡市民と浜松市民は、どちらが大きい都市かで競っていてあまり仲は良くない(笑)
まあそんな事情もあり、県外へ旅に出るような気持ちでのんびり電車に揺られる。
道中、ひで子さんの半生を描いた漫画『デコちゃんが行く』を読んでいたのだが、これは完全に失敗した。
せっかく気合を入れたメイクが台無しにならないように、今にも溢れ出そうな涙を堪えるのにとにかく必死。家で読んでいたら普通に号泣していただろう。
Amazonなどでも購入できるので、まだ読んでいない方はぜひ。↓↓↓
※泣いても良い場所で読むことを推奨
デコちゃんが行く | いのまちこ, いのまちこ, たたらなおき |本 | 通販 | Amazon
巖さんとひで子さんが暮らす家
そんなこんなで浜松に到着。
外に出た瞬間、寒い!とにかく風が強い!
これが噂には聞いていた「遠州のからっ風」というものか。
この風の中で生きてきたのも、ひで子さんの強さの秘訣の一つなのかもしれない。
手土産のお花が吹き飛ばされないように両腕で抱きしめながら、いざ袴田家へ。
袴田家は、浜松駅から歩いて十分ほどの、白い3階建てマンションの3階部分である。
このマンションは、ひで子さんが巖さんと暮らすために30年ほど前に建てられたもので、見事夢が叶い、巖さんと共に穏やかに生活されている。
3階まで階段を上ると、かわいらしいピンク色の大きなドア。
そこがひで子さんと巖さんのおうちである。
(階段がなかなかキツかったのだが、巖さんもひで子さんも毎日上り下りしているようだ。元気すぎる……)
出迎えてくださったのは、袴田さん支援クラブ代表の猪野待子さん。献身的にひで子さんと巖さんの支援をし続けている、ものすごくパワフルな美人だ。
中に入らせていただくと、広々としていて見晴らしの良い、綺麗で素敵なお部屋である。
そこに、巖さんがいた。
巖さんがいるだけで、なんだか幸せ。
何度も画像や映像で見たことのある巖さんが、穏やかな表情で目の前に座っていた。
緊張しながら挨拶をして、握手していただいた。
柔らかく温かい手だった。
巖さんの自認年齢と同い年の23歳であること、清水から来たということ、巖さんとお友達になりたいということなどを話しかけてみたが、何となく返事をしてくれるときがある程度で、なかなか会話にはならない。
まだお友達にはなれなかった。巖さんに認めてもらえるまで浜松通いをするぞ。
しかし、拙いながらもメジロの絵を描いて添えた手紙を手渡すと、無言でじっと見つめてから、上着のポケットにしまってくださった。
小さい頃の巖さんは、近所で火事が起こった際に、飼っていたメジロの鳥籠だけを抱えて逃げて震えていた、というエピソードを聞いたことがあり、それでメジロの絵にしたのだ。
何か昔のことを思い出していたのだろうか。
表情からは何も読み取れなかったが、受け取ってくださったことが非常に嬉しく、泣いてしまいそうだった。
48年にも及ぶ死刑囚としての獄中生活が、巖さんの人生と精神を蝕んでしまったことに対して、もちろん胸が痛む感覚もあった。
しかしそれ以上に、巖さんがちゃんと生きて目の前にいて、肌のぬくもりを直に感じることができた、その喜びのほうが大きい。
どうしてひで子さんはあんなに強くいられるのだろう、とずっと不思議だったのだが、その理由が何となくわかったような気がする。
巖さんが目の前にいるだけで、なんだか自然と笑顔になってしまうのだ。
そのような人としての魅力が巖さんにはある。
「悲劇にしたくない」ひで子さんの言葉の重み
巖さんが急に出かけてしまってから、ひで子さんと初めてしっかりお話しさせていただいた。
時間がなくてあまり多くはお話しできなかったのだが、私のような若輩者にも、非常に低姿勢に優しく接してくださった。
『デコちゃんが行く』に快くサインもいただけました!すごく達筆……!
いつ見ても若々しく元気なひで子さんが、戦争も経験し、巖さんの無罪を求めて長年闘い、90年間も生きているという事実を、私はまだあまり呑み込めていない。
実際にお話ししていても、こんな90歳が現実に存在するのだろうか…?と疑ってしまう。
「本当に色々と大変だったでしょう……」と私が言うと、ひで子さんは、
「57年もあれば、みんな多かれ少なかれ大変なことはあるよ。私はたまたま巖が巻き込まれちゃっただけで」
と平然と明るく言ってのける。
いやいやいやいや!と思わず突っ込んでしまう。
いやひで子さん、歴史的に残る大きな死刑冤罪事件ですよ?そんじょそこらの苦労と一緒にできるものじゃないですよ?
しかし、ひで子さんは「悲劇にしたくない」とおっしゃった。
私はその言葉を咄嗟には理解できなかった。
巖さんやひで子さんの身に降りかかった苦しみを、悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。
しかし、実際に袴田家に伺ったのもあって、あとになってその言葉の意味が何となくわかるような気がした。
警察・検察や裁判所、再審制度などに対して、一番怒りや悔しさを感じているのはひで子さんのはずである。
しかし、巖さんが生きて帰ってきて、一緒に暮らすことができるということに、一番幸せを感じているのもひで子さんなのである。
だからこそ、過去を振り返るのではなく、常に前を向いて歩くことができるのだろう。
ひで子さんの言葉には、あとになってずんと重みがのしかかってくる。
私が袴田家を訪ねた様子を、猪野待子さんがブログ「袴田家物語」に載せてくださりました。感激です! ↓↓↓
第73回袴田事件がわかる会(ゲスト:小川弁護士)
さて、13時半から浜松復興記念館にて、第72回「袴田事件がわかる会」に参加するために、ひで子さんと歩いて向かう。
ひで子さんと二人で歩くことができるなんて、何だか鼻高々だなと思って意気揚々としていたところ、会場の前で急にパパラッチに遭った。
初公判の日以降良くしていただいている、ジャーナリストの青柳さんである。
何だか芸能人になったみたいだ(笑)
(あとから聞けば、ひで子さんを撮っていただけで私は関係なかったらしいが)
会場には50人ほどの支援者、記者の方が集まっていた。
公判のときなどによくお見かけする方もいれば、お会いしたことのない方も多い。
全体的にあたたかい雰囲気である。
適当な席に座ろうとしたところ、若い人が前にいたほうがいいから、となぜか最前列ど真ん中を指定された。有り難いが、何だか落ち着かない(笑)
講演の様子は袴田チャンネルにアップされているのでご覧ください。
いつも穏やかな印象の小川先生が、ここでは歯に衣着せぬ物言いをされていておもしろいです◎
特に動画の38分頃~ くり小刀を振り回す小川先生は必見(笑)
以下の内容は講演のざっくりとした要約です。動画を見ていただいたほうがより深く理解できると思います。
今回のテーマは、
①こがね味噌事件(=袴田事件)は、本当はどのような事件だったか
②再審公判における検察官の立証活動の謎
③5点の衣類がねつ造であることをどのように示すか
の3つ。特に③について、一人一人が検察の目線に立って批判的に考えてみるように促された。
裁判の行方を見守るだけでなく、どのように戦うのが効果的なのか自分でも考えてみることは、より深い事件の理解に繋がる気がする。
これを読んでくださっている方も、ぜひ考えてみてほしい。
何か良いアイデアが浮かんだら、私までお気軽に連絡ください。
①こがね味噌事件は、本当はどのような事件だったか
これを今になって取り上げる理由は、袴田さんが犯人か否かという部分ばかりが争われてきて、もともとの事件の本質が疎かにされてきたからである。
また、最近になってやっと出てきた証拠も多く、やっと事件そのものを見つめることができるようになったことも大きい。
この事件は、袴田さんを犯人に仕立て上げるという目的のために、事件そのものがねじまげられている部分が多い。
例えば、
・犯人は深夜に侵入したとされているのに、被害者らはまだ起きているときのような服装をしていた。
・被害者宅は両隣と接近していて物音も筒抜けなのに、犯人がくり小刀一本で一人で侵入してきたとされているのにもかかわらず、誰も叫び声などを聞いていない。
・強盗目的とされているが、家には多額の財産が残されていた。
このような明らかな矛盾点があるのにもかかわらず、”自白”があることで、検察側の作り出したストーリーがなぜか受け入れられてしまったのである。
重くてゴワゴワする雨合羽を着て犯行に及ぶか、という点や、くり小刀で人を殺害できるのか、という素朴な疑問もある。
そこで小川先生が実際に同じようなくり小刀を出して実演。
目の前でくり小刀を振り回されていたので、なかなかスリリング(笑)
そもそもくり小刀というのは、刺すものではなく横に動かして削るためのものである。
そのため、ツバがないので手が滑れば怪我をする。
また刃と柄を繋ぐ部分である目釘もないので、刺せば刃が抜けてしまう。
被害者の傷を検証するまでもなく、そもそも人4人を合わせて40箇所も刺せるようには作られていないのである。
②再審公判における検察官の立証活動の謎
検察は、高裁で再審開始が決定された際に特別抗告をしなかった(=負けを認めた?)のにもかかわらず、再審公判では力を入れて有罪立証をしている。
特に「5点の衣類」を一番の争点としているようである。
差戻し後の再審請求審で、「長期間みそ漬けにしても血痕に赤みが残る場合はある」という法医学者の証言があったが、東京高裁はこれを一切採用しなかった。
にもかかわらず、また今回の再審公判で、7名もの法医学者が連名で同じ内容の鑑定書を提出し、検察はそれを証拠としている。
小川先生はこれを「謎の鑑定書」と呼ぶ。
しかし、「赤みが残る場合がある」即ち「犯行着衣である」とはならない。
つまりこの鑑定書が正しいとしても、5点の衣類が袴田さんのものであることを裏付ける証拠にはなり得ないのである。
③5点の衣類がねつ造であることをどのように示すか
5点の衣類については素人目に見てもおかしな部分ばかりだが、ねつ造だとなるべくわかりやすく訴えるためにどうしたらいいのか、小川先生自身も悩まれているようである。
そのため、一人一人が検察官になったつもりで、一緒に考えてほしいとのことだった。
「みなさんは検察官、私は正義の味方の弁護士ですから」
会場が爆笑に包まれる。
わかりやすいねつ造疑惑としては、1年2カ月味噌に漬かっていたにしては衣類が白すぎることや、中に着用していたはずのものに外側よりも多く血が付いていること、巖さんがズボンを穿けなかったことなどが挙げられる。
ズボンの着用実験は1972年と1975年の2回行われている。
1972年のほうは若干太っていたらしいが、1975年のほうは引き締まって腹筋が綺麗に割れている。それでもズボンは入らなかった。
これだけでも十分な材料にはなるのだが、加えて衣類の「色」が大きな争点として扱われるようになった。
ずっと茶色っぽい衣類の写真しか見ていなかったために、弁護団の方々も衣類の色にはあまり注目していなかったようだが、最近になってやっと、もとの布の色がわかるような写真が開示されたのである。
またその他に、服と下着の血痕の位置のズレや、裏側のほうに多くついている血痕、ズボンに入っていたのに味噌に染まっていないマッチなど、疑惑は数えきれない。
実際に衣類に血液をつける実験も行っている小川先生は、平面に置いて血液がつけられたように見える、血液を擦り付けたように見える、などの疑惑も抱いていた。
本当にやったことがあるからこその指摘だ。私にはそこまではさっぱりわからなかった。
ここから軽く質疑応答に移って終了。
非常に興味深く、深く考えさせられる講演だった。ありがとうございました。
その後は「見守り隊」(巖さんと一緒にドライブに行ったりお世話をしたりしている方々)から、ここ1カ月間の巖さん、ひで子さんの報告。
巖さんのほっこりする写真や、ひで子さんの楽しそうな写真ばかりで、思わず笑顔がこぼれる。
特に和歌山へ行った際のひで子さんの写真がとても美しかった。
呼ばれればどこへでも講演をしに行くひで子さんだが、長い間友達と旅行に行くなんてこともなかったため、遠征先での観光を楽しんでいるようである。
巖さん、ひで子さんの日常は、先ほども貼った「袴田家物語」で見ることができる。
浜松で支援活動をされている方々は、事件のことはもちろんなのだが、それよりも巖さんやひで子さんの幸せを最優先しているように感じられて、とてもあたたかい。
その努力とやさしさのおかげで、ひで子さんも巖さんも元気でいられるのだろう。
浜松までの遠征で疲弊してしまい、この日は早々に帰路につく。
夕飯はピザを取り、やっとボジョレーヌーヴォーを開けた。幸せだ。
さて、明日は第三回公判。
検察側から5点の衣類についての主張が行われるとのことだが、何を言うのか楽しみなところである。
静岡地裁にて11時から開廷。傍聴券配布は8時半から9時まで。
空いている方はぜひ応援しに行きましょう。
夜遅くなってしまったが早くこの記事をアップできたので、どうか傍聴券が当たりますように。
それ以前に、絶対に寝坊しませんように。
あ、そういえば、今回から見出しや太字などを使って見やすくしたつもりです。過去の記事も読みやすいように近々編集します。読みにくくてすみません。
それでは、アラームをたくさんつけて寝ます。
最後まで読んでくださりありがとうございました。