袴田事件無罪判決から1年
大変ご無沙汰しております。
袴田事件の無罪判決が2024年9月26日に言い渡されてちょうど1年。このブログの更新も約1年前ですっかり途絶えてしまっていました。
「袴田事件を背負っていきたい」、「袴田事件を風化させないために発信し続けたい」、口では散々言っていても、支援団体も次々と解散し、支援者の皆さまや弁護団の先生方とお会いする機会もかなり少なくなってしまい、何かしようにもどうしたらいいかわからず、焦りばかり込み上げてくる日々。結局具体的な方法が見つからないまま、のらりくらりと1年を過ごしてしまいました。
また個人的な話をすれば、無罪判決後には有難いことにいろいろなメディアで取り上げていただいたのですが、環境の変化についていけずうまくビッグウェーブに乗れず。
更には、4月に愛する母を癌で亡くしまして、まだ精神的にも不安定な日々を送り続けています。今もうつ病と戦いながら生きているニートのままでいます。
さて、この1年間、細々とではあるが、ほかの冤罪事件に関わったり、再審法改正のために動いてきた。1年を振り返って、ざっくりと活動報告をしてみたいと思う。
再審法改正に向けて
まずは、なんといっても、一刻も早い再審法改正である。
とりあえず各地の集会や院内集会にも参加してきたし、6月には国会前でのスタンディングなんかにも積極的に参加し、議員立法による再審法改正を求めてきた。
が、もう一歩!というところで実現しなかった......。
なんとしてでも実現させたかったし、袴田事件判決でこれだけ世論が盛り上がったのでできると思っていたので、本気で悔しい。憤りでいっぱいだ。

次こそ、秋の臨時国会で、なんとしてでも成立させる必要がある!
この1年間、また多くの冤罪被害者の方々とお会いする機会があり、速やかに救済が行われる必要があることを実感した。そのために絶対に再審法の改正が必要だ。
袴田事件判決から1年の今日9月26日を中心に、9月~10月にかけて、各地で街頭宣伝が行われる。全国の声を国会に届けるべく、お近くの方はぜひ参加してください。
福井事件、再審無罪判決!
そして、2025年7月18日、福井事件の前川さんが、新たに無罪判決を勝ち取った。
前川さんとは、1月に清水の集会で初めてお会いした。懇親会でお話しさせていただき、LINEを交換させていただき、たまにメッセージのやり取りをする仲にもなった。
3月6日の初公判、7月18日の判決、両日とも名古屋高裁金沢支部まで足を運んだ。
傍聴はできなかったが、前川さんの再審公判に立ち会えたこと、無罪になった前川さんの晴れ晴れとした表情を見られたこと、それだけでも金沢まで行った価値は大いにあった。



判決の後の打ち上げまで、恐縮ながら同行させていただいた。
「無罪判決後のビールは美味しい」としみじみと語る前川さんの姿に、胸が熱くなった。
今まで本当に苦労されてきた分、これからの人生、たくさんの幸せが訪れることを心より願っています。
そしてほかの冤罪被害者の方がこれに続けるよう、世論から盛り上げていかなければならないと思った。
湖東記念病院事件国賠訴訟
福井事件判決前日の、7月17日。大津地裁。
湖東記念病院事件で2020年に再審無罪判決を言い渡された西山美香さんの国家賠償請求の判決が言い渡された。

これは運よく傍聴券が当選し、判決を聞くことができた。
滋賀県警の違法捜査は全面的に認めたが、検察の違法は認められなかった。また「供述弱者」の問題に触れられなかったり、判決内容に不満は残るが、主文言い渡しの際の西山さんの嬉しそうな表情が見られてよかった。
今西事件控訴審無罪判決
2024年11月28日、娘に対する傷害致死などの罪に問われ一審有罪判決を受けた今西貴大さんの控訴審判決が大阪高裁であった。
この日も運よく法廷に入ることができ、無罪判決の瞬間、涙を流して弁護団の先生方と抱き合う今西さんの姿を見ることができ、思わずウルっと。

イノセンス・プロジェクト・ジャパン(IPJ)の学生さんたちが熱心に支援されていて、若々しいエネルギーにびっくり。最近、歳をとったなあと実感するようになったりします。
今西さんと学生さんたちがとても気さくにお話しされていて、こういう形の支援もいいなあと、少々羨ましく見ていました。
今市事件 現地調査
2005年に起きた今市事件で、2020年に無期懲役となった勝又拓哉さんの弟・高瀬有史さんとともに、勝又さんの当時住んでいたアパートや、女児が連れ去られたとされる場所、遺棄された場所、被害者の女の子のお墓などを巡らせていただいた。

勝又さんの自白通りに、山道から山林へ、実寸大の人形を投げるという実験もさせていただいた。これが、自白のようにはうまく辿りつかない。
実際に現地に行ってみて、自分が犯人だったらそうは行動しないだろうという疑問や、自白との矛盾点が浮き彫りになった。
被害者のお墓参りもさせていただいた。7歳で亡くなった被害者の好きそうなものから、生きていれば20歳を超える被害者のためのお酒まで、たくさんのお供え物があり、胸がぎゅうと苦しくなった。
袴田事件でも、若い学生二人を含む尊い4人の命が無惨に奪われている。冤罪が晴れても、事件そのものは未解決になってしまう。冤罪を考えるとき、事件の被害者のことも忘れないようにしたい。その思いから、袴田事件の現場や被害者の方々のお墓参りにはできるだけ行くようにしている。
袴田巖さん、ひで子さんと
ひで子さんとは集会などでお会いする機会も多かったが、浜松に伺う機会もめっきりなくなってしまい、こちらからお手紙なんかを差し上げるような一方的な交流が主となってしまった。
こちらは1月に巖さんが急に清水にやってきたときのことである。昔やられていたバー「暖流」の跡地周辺を、元気に歩いてらっしゃった。(店舗は違うが建物自体は残っている)

なかなか袴田家に伺わせていただける機会が見当たらなかったが、5月に久しぶりに訪問させていただいた。
この日はひで子さんとゆっくりお話しさせていただける時間があり、幼少期のお話を聞かせていただいたりだとか、また私のとりとめのない話も大変優しく受け止めてくださった。

巖さんは外出でお疲れのようであまりお話ができなかったが、お元気そうで何よりだった。
無罪判決を受けた今も自認年齢は「23歳」だとおっしゃっているらしいので、私も25歳になってしまいましたが、巖さんの前では永遠の23歳を突き通していこうかなと思っております。
今後のこと
さて、冒頭にも書いたが、私は袴田事件に関わらせていただいた経験を糧に、いったい何ができるのだろうか、自問自答し続けても答えの出ない日々だった。
そんな中でもできることはなるべくやってきたつもりだ。あちこちに行って、色んな人と出会い、多くのことを感じ、学んできた。Xではリアルタイムの発信を続けてきた。
「袴田事件を風化させない」と言っても、なかなか難しいものがある。とはいえ、もう少しいろいろできたんじゃないかという後悔は残るが。
しかし、せめて毎年9月26日は、袴田事件について改めて考え直す日になってほしいと思う。「無罪になってよかった」で終わらせてはいけない。
私も声を上げ続けていきたい。今日は街頭宣伝など、頑張ってきます。
そして、明日9月27日は「袴田事件無罪判決一周年集会」。
改めて袴田事件について語り、再審法改正に向けて訴える日にしたい。
皆さまぜひお越しください。

また、9月27日、10月4日の20時から、新プロジェクトXにて、二週にわたって袴田事件について取り上げられる。こちらも必見です。
そして、これは余談だが、母のお葬式の際、面識のない母の友人から、袴田事件の話ばかりされて驚いた。生前、母は友人に私の記事を拡散しまくっていたようだ。
母は、私がろくに働かずに袴田事件にのめり込んでいても、文句ひとつ言わず応援してくれていました。これだけ私のことを広めてくれていたのかと思うと、「やるしかない」という気持ちにさせられます。お母さん、ありがとう。
袴田巖さん、ひで子さんはもちろん、弁護団の先生方や支援者の方々、私は皆さまのことが大好きです。そしてこの1年間で各地で出会った方々のことも大好きです。
大好きな皆さまとともに、冤罪の問題を中心として、活動し続けられたらいいなあと、今はぼんやりと思っています。袴田事件を一生涯背負っていく覚悟はあります。
そして、そろそろこのままではいられない、と、少しずつですが動き出す準備をしていたりもします。
これからどういう人生を歩んでいくのか、まだぜんぜん見えなくて、不安でいっぱいですが、「袴田事件」という大きな軸が一本通っていることで、なんとか自分を強く持っていけるかなと思います。
いつまで経っても未熟な私ではありますが、そろそろ自分の足で自分の人生しっかりと踏みしめたい。一歩ずつがんばってまいりますので、あたたかい目で見守っていただけたらうれしいです。
袴田巖さんの「無罪勝利」静岡集会の感涙、と鈍痛【袴田事件再審】
無罪判決から3日後の、9月29日(日)。静岡労政会館にて、袴田事件判決集会が行われた。
この日、会場に巖さんがいらっしゃって、壇上でお話をされた。
あまりにも素晴らしく、貴重な集会であった。その日のことをつらつらと書く。
集会の最初に登壇されたひで子さん。判決の日以来、少しお顔が優しくなったように見える。
長い間背負ってきた呪縛から解放されたからだろうか、そんなふうに感じた。
「裁判長さんの、主文、被告人は無罪、というお言葉を、神々しく伺いました。1時間くらい涙が止まらなかった。本当に、それくらい嬉しかった」
満面の笑みで当日の喜びを語るひで子さんの様子に、胸の中があたたかい気持ちでいっぱいになる。
「巖の目を見て、無罪になったよ!あんたの言うとおりになったよ!って言ったんですが、本人は何とも反応いたしません。前はね、そんなことは嘘だって必ず言ったんですよ。そういう言葉も発しませんでした。ただ黙って、私の顔を見つめて、言葉を発しませんでした」
判決の当日の夜、帰宅したひで子さんが巖さんに無罪を伝えたという。そのときの様子はYouTubeに上がっている。(7:07頃~)
「無罪」という言葉を聞いて、巖さんの顔が少しほころんだ。私はこの映像を見て、伝わっている...!と感じた。
「翌日の新聞を全部買って、巖に、ここに書いてあるでしょ!って言ったんですが、新聞をずっと見ておりまして、やっぱり言葉は発しませんの。たぶん、多少は、わかっているかと思います」
この日は巖さんも会場にいらっしゃるということになっていた。
途中で入ってくるかもしれないということで、会場に集まった人々も、報道陣も、今か今かと後方に気を配ってピリピリとしていた。
突然だった。
会場の後ろの扉が、静かに開いた。
会場全体が、一斉に、はっと息を呑んだ。
袴田巖さんが、車椅子にちょこんと座って、そこにいた。
58年の闘いの末に「無罪」を勝ち取った、巖さんの姿であった。
私が最後に巖さんにお会いしたのは、今年の1月だった。そのときよりも、随分と小さく、弱々しくなったように見えた。
しかし、巖さんのいるところだけ、なぜかスポットライトが当たったかのように、神々しく、輝いて見えたのだった。

巖さんが壇上に上がると、周りをカメラが覆い尽くした。お顔はちらちらとしか見えなかったが、和やかな表情をしているように感じた。
「え~、わたくしが袴田巖でございます」
マイクを差し出された巖さんは、すらすらと滑らかに言葉を発した。一斉に拍手が起こる。しかし、次の言葉を、誰が予想していただろうか。
「待ちきれない言葉でありました。無罪勝利が完全に実りました」
想定外の言葉に、一瞬空気が固まった。「おおっ」「ええっ」とあちこちで声が上がった。会場が大きな拍手に包まれる。
「ついに完全に全部勝ったということで、今日はめでたく皆さまの前に出てきたということであります。こがね味噌事件で無罪勝利ということで、検察も認めたということで......」
巖さん、わかってる。ちゃんと理解しているんだ......。
少なくとも、絶対にわかっていると、私は確信した。

ひで子さんが「ありがとうって言いな」と優しく促す。
「ありがとうございました」
巖さんがはっきりとした声でお礼を告げた。
大きな、大きな拍手が、いつまでも鳴り止まなかった。見渡せば、皆、泣いていた。
私の頬にも涙がつたって、視界が歪んだ。
私は、支援活動に携わってまだ1年にも満たない、皆さまと一緒に涙を流すのも烏滸がましいような新参者だ。
それでも、再審初公判の日に皆さまと出会い、そこから、ときには躓きながらも、判決の日までの11か月ほど、無我夢中で走り続けてきた。
ああ、この瞬間を見るためだったんだな。私は、ここでやっと気付いた。
続いて、判決報告のために壇上に上がった主任弁護人・小川秀世先生。
話しだそうとするも、嗚咽がこぼれて、言葉がつまる。応援するように、大きな拍手が何度も沸き起こった。
あとからいろんな方が、「小川先生はよく泣くけど、あそこまで泣いたのははじめてだよね」と話しているのを耳にした。綺麗な男泣きだった。
数分後、小川先生が話し出した。
「今まで、袴田さんに再審開始決定が出たとかいろいろ言っても、それはもう終わったことだ、とか、こがね味噌事件はなかったんだ、とか、そんな感じで、追い返すような対応をずっとしてたんです」
「でも、ひで子さんが今回無罪になったということを伝えたら、それに対しては何も言わなかったじゃないですか。これは、僕は絶対に巖さんに何か伝わってるんだと思って、それをお伝えしようと思ったら、本当に伝わってたじゃないですか...もうすごいうれしいですよねそれが...本当に......」
小川先生が、弁護士登録と同時に弁護団に入ったのは、1984年のこと。つまり、今年で40年になる。
その間、どれだけの苦労をして、どれだけの思いを抱えて、ここまで走り続けてきたのだろうか。私には、その重みは到底計り知れない。
小川先生の積年の思いが詰まった涙が、滲む視界の中でゆらゆらと煌めいていた。
巖さんが登場してから、私は身体の震えが止まらなくなっていた。
巖さん、そしてひで子さん、小川先生をはじめ、弁護団、また支援者の皆さま、皆さまの感情が発露して、会場の中で熱く煮えたぎっていた。
またか、と思うだろうが、自分の感情の渦に耐え切れず、私は集会の途中からは会場の外にいた。
巖さんが、再審無罪ということを認識していた。そのことを、私たちの前でお話ししてくださった。そのことにひたすら感激していた。
私もその場に居合わせることができたことに、心の底から幸せを覚えていた。
ただ、胸の中に、ほんの少しひっかるものも感じていた。
今思うと、私は、巖さんの口から流れるように出た「こがね味噌事件」という言葉に、あのときから止まってしまった巖さんの人生の重みを感じていたのだと思う。
巖さんの口から事件のことを聞いたのは初めてだった。巖さんの発する「こがね味噌事件」は、2024年から振り返ったものではなく、確実に1966年当時のままの言葉であった。
事件が起きたのは、私の生まれる34年前のこと。私からすると、歴史の一部分のように感じてしまう。
巖さんは、(※まだ確定はしていないが)もう、普通の人になった。
しかしそれは、この集会で角替先生が語っていたことでもあったが、深い深いマイナスの人生がやっとゼロになったというだけであって、無罪判決によって何かを得たということは全くないのだ。
冤罪というものが、袴田巖さんという、目の前にいるごく普通の88歳の男性の人生を、本当に取り返しがつかなくなるまでに深く酷く破壊した。その重みに、私は耐え切れなくなったのだろうと思った。
国家が、人一人の人生を奪う、そんなことがあろうか、ということが、実際に目の前で起きている。
無罪判決が出て本当に良かったと、心から嬉しく思っている。早く巖さんに直接会って、手を握って、おめでとうが言いたい。
しかし、決してそんなことでは済まない、重く鈍い痛みに、我々は常に直面させられる。
私は、これから先、”袴田事件”に出会えたこと、皆さまの思いを背負って、再審法の改正であったり、明るい未来のために進んでいきたい、と思っている。
やがて私たちが手に入れようとしている明るい未来には、袴田巖さんという大きな犠牲があった。そのことから、決して目を背けてはならない。
決して、「無罪になってよかったね」だけでは終わらないのだ。
感動の涙を流しつつも、自分の心にも未来永劫癒えずに残るだろう傷口を実感する、そんな一日であった。
袴田事件「無罪判決」その日、その瞬間
9月26日木曜日、午後2時すぎ。
袴田巖さんに、無罪判決が言い渡された。
逮捕から58年、死刑確定からは44年。あまりにも長い年月であった。
今回は無罪判決当日の様子をお伝えしていく。
といっても、あまりにも人が多く忙しなく、私もいつものごとくテンション高く走り回っていたため、私の目線から見た一日と、ちょっとした小話なんかをしていこうと思う。
朝、大賑わいの静岡地裁前
9時半から10時に傍聴整理券配布、14時から開廷、というスケジュール。
いつの間にかすっかり支援者となってしまった私は、8時半前には到着。当日は5時半起床。
メディアがたくさん入るし、嬉し涙でぐちゃぐちゃになりたくもないから、メイクに時間がかかるのだ。
ステージや横断幕の設置などを(ほとんどは屈強な男性に任せ)手伝ううちに、人もメディアもどんどん増えてくる。初公判以上のお祭り騒ぎだ。
ついに迎えた判決の日である。私も含め、皆さまの高揚感や緊張感を肌で感じる。

支援者をはじめ、日弁連の方々や静岡県など各地の弁護士会の方々、今までの再審公判や、ネット上での発信の中で知り合った方々の姿も多く見られた。
2014年にここ静岡地裁で再審開始と巖さんの釈放の決定を出した、村山浩昭元裁判長の姿もあった。

余談だが、私は一目惚れして買ってしまった真っ白のワンピースで参戦。
潔白の白に、胸の二輪のチューリップは、巖さんとひで子さんに捧げるために、なんて、後付けだが。
こんな私だが、この日は本当にいろいろな方から取材なども含めてお声がけいただいた。
はじめましての方、なんで私のこと知ってるんですか!?というような方から、「なかがわさんですよね...?」と声をかけていただいたりして、なんとも畏れ多い。ありがとうございます...。
判決のほかにもう一つ楽しみにしていることがあった。
お笑い芸人のこたけ正義感さんこと、小竹克明弁護士がいらっしゃるという情報だ。実は私、かなりのお笑いオタクでもあるので、前日夜からはしゃいでいた。

「こたけ正義感」のサインも「弁護士・小竹克明」の名刺も貰い、お写真を撮っていただき、握手もしていただき、もう贅沢すぎるファンサービス!号泣です。
この日は小竹弁護士として日弁連のお仕事とのことで、夜まで走り回っていらっしゃいました。お疲れさまでした。
倍率12倍越え!500人の長蛇の列
今までの再三にわたる静岡地裁への要請の末、判決当日だけは、やっと一番大きな201号法廷を使うことができるようになった。
時間になり、静岡地裁の構内に、一気に人が雪崩れ込む。傍聴席は40席。そこに502人が集まったという。倍率は計算すると12.55倍。
私は今まで全15回の公判に全て通い、幸運にも8回も傍聴できた。そして16枚目の傍聴整理券(リストバンド)を手首に巻いてもらう。
これで最後か、と少し寂しいような思いにもなる。いや、これで最後にしてもらわなきゃ困るのだけど。

10時45分、運命の結果発表。
私は外れました。まあさすがに、という感じでしたが、見たかったなあ。
しかし、運命というのはすごいものだ。
凶器のくり小刀を売ったとされた沼津の刃物店の息子で、再審公判にも集会等にも群馬県からいつも通われていた、高橋国明さんが見事当選した。
もう一人、袴田事件を描いた漫画「スプリット・デシジョン」の作画を担当された、元プロボクサーで漫画家の森重水さんも当選!
いつもよくしていただいているお二人の当選に、自分のことのように胸が熱くなる。
「スプリット・デシジョン」を含め、森さんの漫画など、こちらから読むことができます。
14時、判決の時
「そろそろかな......」
14時すぎ、静岡地裁前、報道陣も支援者たちもぎゅうぎゅうに押し合い、カメラを構えながら時計を睨み、固唾を呑んでいた。
「来た!」
裁判所のドアが開くと同時に、記者たちが一斉に走り出し、大きな声で「無罪!」と叫んだ。どっと喚声が沸いた。
「ばんざーい」「ばんざーい」「ばんざーい」いつまでも鳴りやまぬ拍手が轟いた。
......なんて本当は書きたかったのだが、実は私はその場から少し離れた場所にいたのだった。
裁判所正門前で構えていたところ、記者たちが全員違う方へ走って行き、遠くに万歳三唱を聞きながら、無罪なんだな、と思いながら、小さく拍手をしたくらいだった。失敗した!!
すぐに万歳三唱が聞こえたほうへ向かい、手当たり次第に色々な方と固く握手をした。
無罪判決が出ることは全員が承知の上だっただろうが、全員の顔がぱっと明るく、煌めいていた。
私自身は、あのときどう思ったかと言われると、実感がないというのが答えだった。
ただ、ひたすらに嬉しかった。私の顔も、きっと弾けんばかりに明るく笑っていただろう。
「控訴をするな!」響くシュプレヒコール
無罪の一報を受けて、すぐに静岡地検へ向かう。
「「「袴田さんは無実だ!」」」
「「「検察官は控訴をするな!」」」
検察庁の前で、何度も何度も叫んだ。いわゆる「シュプレヒコール」というものだ。
こんなことは生まれてはじめてだったが、自然と、本当の言葉として、勝手に大声が出た。
気持ちよかった。袴田さんの無実を、堂々と叫べるということが。58年間虐げられてきた権利を、正しく主張できるようになったということが。
この熱狂の中で、「無罪判決」という言葉の重みが、だんだん身に沁みていったように思う。
「三つのねつ造」の衝撃
無罪になるというのは当然のことで、重要なのは「”5点の衣類の”ねつ造を認めるかどうか」だった。
裁判所前にいると、中に入っている記者らの情報から、どこからともなく「三つのねつ造を認める」という単語が伝わってきた。
すごい!すごいぞ!ねつ造を認めたぞ!という高揚と、「三つ」という数字への衝撃が、支援者や報道陣を一気に襲った。
「三つ」ってなんだ?
答えは5点の衣類のズボンの切れ端である「共布」と、まさかの「自白」だった。
今回の再審公判では、検察官は有罪立証に自白を用いないことになっていた。それはもちろん、取調べの違法性は暗黙の了解であったからだろう。
その自白を、あえて「ねつ造」と認定した。あまりにも画期的な判断であった。
「よく書いてくれた...」村山先生、判決要旨を目にして
15時半頃、私は再び村山先生のそばにいて、いろいろとお話しさせていただいていた。その村山先生に、誰からか手が伸びて、判決要旨の一部が手渡された。
「主文 被告人は無罪。」
その文字が、私の目にもすぐに飛び込んできた。
ああ、現実なんだ。本当に無罪なんだ。私はここでやっと実感した気がした。
村山先生が、貪るように紙をめくっていき、文章を食い入るように見つめた。私もたまらず、横から見させていただいた。
「証拠には、三つのねつ造があると認められ、……」
「捜査機関の連携により、肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強制する非人道的な取調べによって……」
「発見に近い時期に、本件犯行とは無関係に、捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、1号タンクに隠匿されたもので、……」
首を激しく上下に振りながら判決要旨を見つめる村山先生の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「そうなんだよ……そうじゃなきゃ、説明がつかないんだよ……。よく書いてくれた……よく踏みこんでくれた……」
喉の奥から絞り出したような声で、村山先生が呟いた。
村山先生が10年前、同じ静岡地裁で、どれほどの思いを込めて再審開始決定を書いたか。それが棄却され、差し戻され、確定するまでの9年間、どれほどのものを背負い続けてきたか。今回の無罪判決に、どれだけ期待を抱いてきたか。
その計り知れない重みの発露の瞬間に、偶然ながら立ち会ってしまった。
ついに、びろーんのとき
16時10分頃、待ち構えた大勢の人々、カメラの前に、ひで子さん、弁護団の皆さまが姿を見せた。

ついに、このときが訪れた。通称「びろーん」と呼ばれる、あれ、あの瞬間である。未来永劫残り続けるであろう、幸せを具現化したような瞬間!
人にぎゅうぎゅう押されながら、なんとかつま先立ちをして、人と人の微妙な隙間に目とスマホのカメラを押し込んだ。この場所に居合わせられたことを、私は心より誇りに思う。
次に場所を移動して、駿府公園内のステージ(軽トラ)の上から、ひで子さん、小川先生が挨拶を行った。こちらもまた幸せの瞬間であった。

「本当にありがとう!」
いつも明るいひで子さんが、いつもの10倍明るい笑顔で、力いっぱい叫んだ。
みんな笑顔だった。
ひで子さんも、小川先生も、弁護団の先生方も、支援者の方々も、報道の方々も、笑顔で溢れていた。
浜松にいる巖さんも、お空から見ている西嶋先生も、みんな笑顔だろうと思った。
大好きな人たちの笑顔を見ることが、こんなにも幸せだということを、はじめて心の底から知った。
記者会見

17時半ごろ、静岡市民文化会館にて、記者会見。
「裁判長さまの、主文、被告人は無罪というのが、神々しく聞こえましたの」
無罪判決を聞いて、1時間ほど涙が止まらなかったというひで子さん。
ひで子さんも泣くのか。そりゃ、泣くか。泣くよね。少し不思議な気持ちで見つめる。
ひで子さんも、弁護団の先生方も、裁判所に入る前に比べて10歳くらいずつは若返っているような、ぱあっと明るくなったような印象を受けた。
会見後、畏れ多くも、本物の旗を持たせていただくなどしました。

10年前に「再審開始」の旗を出した白山聖浩弁護士が、この日は「証拠ねつ造を認める」の旗を出した。
当時は「再審開始の人」と言われることもあったそうだが、10年経って「証拠ねつ造を認める人」になっちゃいましたね~なんてお話しする。白山先生、10年経っても見た目が変わらないから脳がバグるよね。
長い一日の終わり
記者会見が終わり、打ち上げ会場に向かうと、ちょうどひで子さんが帰ろうとしているところだった。
ひで子さんの手を握って、おめでとうございます、とお伝えできた。それだけで幸せな、本当に幸せな瞬間だった。
打ち上げでは、弁護団の先生のお話を聞きながら、左手はスマホで判決要旨をスクロールしながら、右手に呷るビールが美味しいのなんの。こんな美味しいビールもたぶんこの先ないよ。
疲れた頭に酔いが回って、幸せ~と自然に声が漏れるような、そんな時間でした。
闘いは終わりじゃない
無罪判決は出た。それは本当に喜ばしいニュースで、国民、全世界の人々が、歓喜に沸いたことだろう。
しかし、闘いはこれからだ。まだ、10月10日の夜12時まで、検察は控訴をすることが可能である。
控訴を阻止し、一刻も早く無罪を確定させるため、私も判決翌日の朝から、ビラ撒きなどの活動に励んでいた。
支援者や弁護団が、毎日のように控訴阻止のための運動や、静岡地検や東京高検への要請行動を行っている。
しかし、検察へ声を届けるためには、私たちだけの力では足りません。皆さま一人一人のお力が必要なのです。
下記リンクから、オンライン署名へのご協力、そして拡散を、お願いいたします。
次の日、もう一つ見なければいけないものがあった。

「無罪判決」の旗と一緒に作った大きな垂れ幕が、小川秀世法律事務所に垂れ下がっていた。
わざわざ出てきてくださった小川先生の素敵な笑顔で、今回は終わりにします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
【解説】“袴田事件”ってそもそも何?
9月26日(木)、58年の闘いの末に、ついに袴田さんに無罪判決が下されました!
10月8日、検察は控訴を断念し、袴田巖さんの無罪判決が確定しました!
「無罪になってよかったね」で終わらせないことが重要です。袴田事件を契機として、凝り固まったこの国の司法に風穴を開けていく必要があります。
そのため、皆さま一人一人が声を上げていただきたいのです。
ただ、「袴田事件」、興味はあるけどあんまりよく知らないなあ、という方も多いと思います。そんな方々に向けて、「袴田事件」ってそもそもどういう事件なの?本当に冤罪なの?なぜ冤罪なの?など、なるべくわかりやすく解説しよう!という記事になります。
※袴田さんが巻き込まれた一連の冤罪事件という意味で、あえて「袴田事件」という呼称を用いています。
「袴田事件」とは?
1966年6月30日午前2時すぎ、静岡県清水市(現静岡市清水区)横砂の味噌会社専務の自宅で火災が発生。焼け跡からは、専務(41)と、その妻(39)、次女(17)、長男(14)の4人の遺体が発見された。
従業員で元プロボクサーの袴田巖さん(当時30歳)が逮捕され、後に犯行を自白。裁判では犯行を全面否認するも、死刑判決が下され、1980年に最高裁で死刑が確定。
1981年から再審請求審が始まり、2014年に釈放される。
2023年3月、再審開始が決定、10月から再審公判開始。そして、2024年9月26日、判決。

経過
事件発生、逮捕、起訴
1966年
6月30日 午前2時すぎ、火災発生。4人の遺体が見つかる。
7月4日 工場内の捜索:寮の袴田さんの部屋から、小さな染みのついたパジャマを発見、任意提出。
7月5日 各新聞朝刊で「血染めのパジャマ」「従業員H」などと報道
8月18日 袴田さん逮捕
(この間、一日平均12時間以上の取調べ)
9月6日 自白開始
9月9日 起訴(住居侵入、強盗殺人、放火)
7月4日~5日の動きに要注目。
パジャマにはごく小さな染みがあるのみだったのに、「血染め」と報道された。情報を流したのは、もちろん警察、しかありえない。
そして、猛暑の中、連日休みなく、トイレにも行かせない拷問のような取調べの末、袴田さんは自白に落ちる。袴田事件はこうして「作られて」きた。
裁判
1966年 11月、第一審(静岡地裁)開始。袴田さんは全面否認
1967年 8月、工場の味噌タンク内から「5点の衣類」発見
1968年 静岡地裁:死刑判決
1976年 東京高裁:控訴棄却(死刑判決を維持)
1980年 最高裁:上告棄却→死刑確定
事件発生から1年2ヶ月も経って、血痕のついた「5点の衣類」が、味噌の中から発見される。
事件当時に味噌の中も捜索されているはずで、袴田さんも自分の衣類ではないと否定。しかし検察は、それまで犯行着衣としていたパジャマから、あっさりと変更したのだ。
再審請求審~再審公判
1981年 第一次再審請求
2008年 最高裁:棄却 →第二次再審請求
2014年 静岡地裁:「再審開始、死刑及び拘置の執行停止」を決定、釈放
2018年 東京高裁:棄却
2020年 最高裁:高裁に審理を差し戻し
2023年
3月13日 東京高裁:再審開始決定→20日確定
10月27日 初公判
2024年
5月22日 結審(第15回公判)
9月26日 判決
2014年に、静岡地裁(村山浩昭裁判長)が、再審開始とともに、袴田さんの釈放を認める異例の決定を出した。しかし、再審開始が決定したのは、それから9年後の2023年3月。事件発生からは57年、死刑確定からは43年が経過していた。
30歳で逮捕された袴田さんは、現在(判決当時)88歳。身も心も、未だ死刑囚のまま。9月26日、ついに判決の日を迎えた。
「袴田事件」、なぜ冤罪なの?
袴田さんの自白の信憑性
上にも書いたように、袴田さんが自白を始めるまでの20日間、取調べは一日平均約12時間に及び、ほとんど拷問のようなものであった。取調べ官が怒鳴りつけて自白を迫ったり、トイレに行かせず取調室に便器を持ち込む様子など、生々しい録音テープも見つかっている。
逮捕から自白まで
書き出してみてうんざりするが、過酷さが一目で伝わるよう、あえて取調べ時間をすべて書き出してみる。
「自白するなら犯人だろう」と思うのが普通かもしれない。
ただ、毎日これほど長い時間、しかも猛暑の中、「お前がやったんだ」と責め立て続けられたら...。自分なら、と少し想像してみてほしい。
8/18 14時間15分 →逮捕
8/19 10時間40分
8/20 9時間23分
8/21 7時間5分
8/22 11時間36分
8/23 12時間50分
8/24 12時間12分
8/25 12時間25分
8/26 13時間26分
8/27 12時間47分
8/28 12時間32分
8/29 6時間25分
8/30 12時間48分
8/31 11時間32分
9/1 13時間8分
9/2 11時間15分
9/3 12時間50分
9/4 16時間20分
9/5 12時間40分
9/6 14時間40分 →自白開始
一通だけ採用された自白調書
また自白調書は45通作られているが、当時の裁判では、その自白調書のうち1通のみが採用された。自白の内容はひどく変遷していて、例えば犯行動機は、最初は専務夫人と不倫関係にあったというものから、強盗目的へと変化していく。
物的証拠は乏しいので、犯行は自白によってほとんど認められている。
唯一採用された自白調書の内容を、重要なところだけざっくりとまとめる。
- 深夜、金を盗むために、くり小刀を持って、パジャマの上に工場にあった雨合羽を着て専務の家に行き、隣の家の庭から侵入した。
- 起きてきた専務に見つかったので、くり小刀で一家四人を刺した。
- 途中で専務夫人が投げた金袋3つほどを持って、裏木戸から逃走、工場に戻る。
- 工場にあった混合油を運び、再び専務宅に侵入、油をかけてマッチで放火、金袋からお札を抜いて、再び裏木戸から逃走。
- 盗んだお札のうち5万円は知人女性に預けた
現場に残ったままの大量の金品...目的は強盗?
この事件は、あくまで強盗殺人事件であり、袴田さんが現金8万円ほどを奪った、とされる。
しかし、専務は大金持ち。現場に残されていたのは、現金、小切手、預金通帳、貴金属、合わせればおよそ数千万円分の宝の山!
4人も殺しておきながら、大金には目もくれずに数万円だけ盗っていく、そんなバカな強盗殺人犯がいるか?
また。袴田さんは事件前に金銭的に困っていた様子もなかったし、事件後にお金を使っている様子もなかった。
では、お金はどこへ?うち5万円は知人女性に預けたとされ、後に匿名で投函されたお札が見つかった。使わずに預けるなら、何のための強盗だったのか?
「くり小刀」で4人を殺せるか?
これが、「一家四人を計40箇所刺した凶器のくり小刀」である。

手のひらを出して想像してみてほしい。刃渡りは12㎝、工作に使われるような小さなものである。
さて、今から強盗殺人をしようというときに、これを選ぶだろうか。
実は、遺体の刺し傷には12㎝以上の深さがあったり、なんと肋骨まで切れているのも確認されているが、あくまで凶器はこの「くり小刀」である。
一人でこんな犯行ができる?
さて、ここまでの犯行を、たった一人でこなすことが可能だろうか。
被害者宅は両隣の家と近接しているにもかかわらず、近所の人は誰も物音や叫び声を聞いていない。
また、被害者4人にはそれぞれ10個前後の傷があり、しかも同じ場所に集中している。被害者たちは、反撃したり、逃げたりしなかったのか。抵抗することが不可能だったのか。
どこから侵入?どこから逃走?
隣の家の庭から、超人的な侵入
袴田さんの罪名は、強盗殺人・放火、そして住居侵入。
それでは、どこから侵入したのか。
自白調書によれば、「鉄道の防護柵を乗り越え、被害者宅の右隣の庭に侵入、庭の木を登って屋根をつたい、専務宅の屋根のひさしの下にある水道管につかまって侵入」している。(下図を参照)


しかし、まず防護柵、高さ1.55mほどで、有刺鉄線が張り巡らされている。それを乗り越えて、木に登り、屋根に移る。そして、直径2.7㎝ほどで、針金でくくりつけられた細く脆い水道管をつたっている。
深夜の犯行のはずで、辺りは真っ暗。しかもこのときは、重く動きづらい雨合羽を着ているはず。そんな超人的な芸当ができるだろうか。
閉まった裏木戸から脱出
そして脱出経路は裏木戸。
しかしこの裏木戸は、火災発生中には閂がかかっていたことが、焼けた跡からわかっている。一方、表口のシャッターには鍵はかかっていなかった。
しかし検察は、閂がかかった状態でも隙間をくぐり抜けて脱出できると主張し、それが認められた。
(警察が実験を行った報告書の写真には、かかっていたはずの上の留め金部分が写っておらず、外しているのを隠して撮影された可能性が高い)
そもそも袴田さんは専務宅に何度も行っているのだから、あえてそんな面倒なことをしなくても、鍵を開けて普通に出ればいいだけの話だ。
裏木戸じゃなきゃだめなの?
なぜそこまでして、裏木戸にこだわるのか。
鍵のかかった裏木戸と鍵のかかっていない表口があるなら、表口から出たと考えるのが自然だろう。

それは、上の図を見れば一目瞭然で、被害者宅と工場の位置関係からして、工場の人間なら、当然裏木戸から出るからである。
警察としては、どうしても犯人と工場を結び付けたかった。だから、袴田さんは、わざわざ隙間をくぐり抜けてでも、裏木戸から出なければいけなかった。
犯行着衣
血のついていない「血染めのパジャマ」
上にも書いたが、事件から4日後の工場内の捜索で、寮の袴田さんの部屋から見つかった、ごく小さな茶色っぽい染みのついたパジャマが見つかった。
そして、血痕だという鑑定もないのに、次の日の各社朝刊では「血染めのシャツ」と表現し、「従業員H」と、ほとんど名指しで報道された。当然、警察が記者に洩らした情報である。
そして、取調べのときにも、「パジャマに血がべったり付いていた」など嘘を言って、このパジャマが悪用されてきたのだった。
工場の雨合羽とくり小刀
パジャマの上に、みそ工場の雨合羽を着て専務の家に行ったとされる。しかし、事件のあった日は熱帯夜だった。暑いゴムの雨合羽をわざわざ着て行くだろうか。
なぜ雨合羽を着なければならなかったか。庭に落ちていた雨合羽のポケットにくり小刀の鞘が入っていたとされているからである。雨合羽は、みそ工場と事件現場、くり小刀を結びつける柱となっているのである。
「5点の衣類」の謎
1年2か月後の急な出現
第一審の途中、事件から約1年2ヶ月が経った1967年8月、工場の味噌タンク内から、血痕の付いた「5点の衣類」(スポーツシャツ、Tシャツ、ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ)が発見された。
工場内は事件直後に捜索が入り、もちろん味噌タンクの中も調べられているはず。なんで今更、というタイミングでの発見だった。
そもそも、従業員が、遅かれ早かれ発見される味噌タンク内に、血痕の付いた犯行着衣を隠すだろうか。隣には証拠隠滅にぴったりの場所、ボイラー室もあった。
共布発見、すぐに犯行着衣に
直後、袴田さんの実家に捜索が入り、タンスの中からズボンの共布(切れ端)が見つかる。まるで最初から見つかるとわかっていたかのような手際の良さで...。
検察は、最初からずっと犯行着衣としてきたあの”血染め”のパジャマをあっさりと捨て、「5点の衣類」が犯行着衣と変更した。
穿けないズボン、サイズのミスリード
袴田さんは、自分のものではないと否定。実際に袴田さんがズボンを穿く実験も行われたが、小さすぎて穿くことができなかった。
しかし、裁判では、味噌漬けによってサイズが縮んで穿けなくなったと認定されてしまう。ズボンのタグには色の表記が書かれていたが、検察は製造元の証言を隠蔽、「大きいサイズを表す」とのミスリードをしてきたのだった。
これは再審請求審段階で初めて明らかになった。検察は知っていてわざと隠したのだ。
いつ、誰が、味噌の中に入れたのか?
工場の味噌タンクは、各辺が2mほどの大きな直方体。そこに味噌を仕込み、1年かけて醸造し、取り出して販売する。
1966年6月30日、事件発生時は味噌の仕込み前で、味噌はほとんどなかった。
7月20日、4tの味噌を仕込み、翌1967年7月25日から味噌の取り出しを開始。
8月31日、タンクの底のほうから「5点の衣類」が発見される。
つまり、味噌が少なくなっていて衣類を入れられるタイミングは、①1966年6月30日~7月20日、②1967年8月31日の少し前、のどちらかになる。(下図参照)

②の期間は袴田さんは勾留されていたわけだから、つまり、袴田さんが衣類を隠したとすれば、逮捕前の①の期間しか不可能である。
しかし、残っていた味噌では、衣類を隠すには量が足りない。
もし犯行着衣を隠すとしたら、普通は殺害した直後だろう。しかし、7月4日の捜索では発見されていない。となると7月4日以降だが、袴田さんはすでに警察にマークされていて、この状況でそんなリスクを冒すだろうか。
では、次に衣類を入れられるとしたら、②のタイミング。このとき袴田さんは裁判中、当然入れることができない。
もし②なら、確実に捏造証拠である。だとしたら、誰が入れたのか。もちろん、捜査機関以外にありえない。
そして、再審請求審段階で、①のタイミングで入れられた=「1年2ヶ月味噌に漬かっていた」にしては、生地が白すぎるし、血痕が赤すぎるのではないか?という疑問も浮かび上がってくる。(詳しくは次の章を参照)
再審開始までの道のり
支援者による「味噌漬け実験」
第二次再審請求審で、多くの証拠が開示された。そのひとつが、1年2ヶ月味噌漬けにされたという、この5点の衣類の画像である。

実はこの写真は最近まで隠されてきて、昔の裁判で提出されていた写真はもっと茶色いものだった。
「1年2ヶ月味噌に漬かっていたにしては、生地が白すぎるし、血痕が赤すぎるのではないか」
素朴な疑問を抱いた支援者が、血痕のついた衣類を味噌に漬ける実験を行った。

実際に、1年2ヶ月の間、血痕のついた衣類を味噌漬けにした結果である。違いは一目瞭然。生地は真っ黒で、血痕かどうかもわからない。カラー写真とはあまりにも違う。
本当に1年2ヶ月味噌に漬かっていたのか?
この実験が認められ、捜査機関による捏造の可能性が極めて高いとして、再審開始の扉をこじ開けた。
DNA鑑定
もう一つ、再審開始に大きく貢献したのはDNA鑑定である。
事件当時、袴田さんは右肩を怪我していた。そして、5点の衣類の白半袖シャツの右肩部分には、袴田さんと同じB型の血痕がついていた。だから袴田さんのものだ、とされた。
しかし、この白半袖シャツの右肩部分のDNAが、袴田さんと一致しなかった。
5点の衣類のほかの部分の鑑定でも、血痕のDNA型は袴田さんとも被害者とも一致しなかった。
つまり、この5点の衣類は、袴田さんのものではないし、犯行着衣でもない、ということである。
再審公判のポイント
再審公判ではどんなことが行われたのか、ざっくりと振り返る。
検察側の主張
検察は再審公判においても有罪立証を行い、主に以下を主張した。
〇犯人はみそ工場関係者で、袴田さんが犯行を行うことが可能だった
〇5点の衣類は袴田さんの犯行着衣で、事件後に味噌タンクに隠された
弁護側の主張
対する弁護側の主張は主に、
〇真犯人は外部の複数犯で、強盗ではなく怨恨目的
〇5点の衣類は捜査機関による捏造証拠である
というもの。徹底的に袴田さんの無罪を訴えた。
血痕に赤みは残るのか?:7人の法医学者の「共同鑑定書」、証人尋問
一番の争点は5点の衣類。
5点の衣類の血痕に赤みが残る「可能性がある」という鑑定書を、7人もの法医学者が連名で出した。
立証責任があるのは検察なので、もし袴田さんの犯行だと言いたいのならば、「絶対に赤みが残る」ということを証明しなければならない。
証人尋問では、検察側の証人2人と、弁護側証人3人が、赤みが残る可能性について証言した。しかしここで、検察側の主張が揺らぐ...。(詳しくは、第10回、第12回公判の傍聴記を参照)
自白が無罪を証明する
今回の再審公判では、検察は袴田さんの自白を使わなかった。
弁護側は、警察・検察の違法捜査があったとして、自白の録音テープを法廷で流した。対する検察も、違法な誘導はなかったとして、録音テープを流した。(墓穴を掘っている気がしたが...)
結審(第15回公判)
再審公判は、2024年5月22日に結審を迎えた。
検察は蒸し返しの主張を繰り返し、挙句の果てに死刑を求刑した。
弁護団は今までの主張をまとめ、姉のひで子さんも意見を述べて、無罪判決を求めた。
いよいよ9月26日、判決を迎える...。
参考文献
袴田事件には、ここでは紹介しきれないほど多くの「謎」がある。
わかりにくい部分などありましたら、お気軽にご指摘ください。すぐに修正等いたします。
参考文献として、参照している書籍やサイト等を記載します。
この記事をきっかけに袴田事件に関心を持ってくださった方はぜひ読んでいただき、事件についてもっと詳しく知っていただきたいです。
書籍
- 山本徹美『袴田事件ー冤罪・強盗殺人事件の深層』(プレジデント社、2014年
- 小石勝朗『袴田事件これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)
- 高杉晋吾『袴田事件・冤罪の構造 死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った』(合同出版、2014年)
- 袴田事件弁護団編『はけないズボンで死刑判決 検証・袴田事件』(現代人文社、2003年)
- 浜田寿美男『袴田事件の謎ー取調べ録音テープが語る事実』(岩波書店、2020年)
- 尾形誠規『完全版 袴田事件を裁いた男ー無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元エリート裁判官・熊本典道の転落』(朝日新聞出版、2023年)
- 袴田巌著、袴田巌さんを救う会編『主よ、いつまでですか』(新教出版社、1992年)
サイト等
・袴田巖さんに無罪判決を! 【袴田事件】 - YouTube
「23歳」―袴田事件に関わって、今思うこと。
「長生きがしたい」――最近、事あるごとに口を衝いて出る言葉に、自分自身がいちばん驚いている。
初っ端から暗い話で恐縮なのだが、私は小さい頃から人生に対する希望やら欲といったものがあまりなかったし、数年前からはうつ病を発症し、率直に言ってしまうと、何度か死を考えたこともある。
そんな私が、今では、生きたい、生きなければならない、と強く思うようになった。こんなことを思うようになったのは、ひとえに、この袴田事件の再審公判に関わらせていただいたおかげである。
初公判からの短い間ではあるが、袴田事件再審公判を追うなかで、私はあまりにも多くのものを目にした。決して許すことのできない、あまりにも重大な司法の過ち。無実の身でありながら死刑囚としてその半生を過ごし、釈放されてもなお囚われ続ける巖さん。巖さんの雪冤のため、人生を懸けて闘い続けるひで子さん、弁護団や支援者の方々の姿、その想い。
私なりにこの再審公判をしっかりと見つめ、たくさんのことを考え、学ばせていただいた。ここで目にしたもの、感じたことのすべてを、次の世代へと受け継いでいく、それこそが、若い世代である私の使命なのだと胸に誓っている。
とりあえず、結審を終えた段階の今、まとまりのない文章ではあるが、この再審公判を振り返って、「23歳」の率直な気持ちを書き残しておこうと思う。
2023年10月27日、袴田事件、再審初公判。
あの日は、あまりにも熱く、目まぐるしく、くらくらするような長い一日だった。初めて生で拝見したひで子さんや弁護団の皆様、たくさんの支援者の方々。闘う人間とは、こんなにも強く、かっこいいものなのかと、頭を殴られるような衝撃を受けたことを、今でもよく思い出す。
初公判に行こうと思ったのは、ほとんど興味本位だった。大学を卒業したはいいものの、就職もできずに引きこもっていた頃、新聞を眺めながら、袴田事件の再審を見に行こう、とふと思い立った。裁判傍聴に興味があったので、良い機会に、という思いだった。歴史的な再審無罪の瞬間に立ち会いたいという、ただの野次馬的精神でもあった。
清水の、事件現場からそう離れていない場所で生まれ育ったので、「袴田事件」という名前と、冤罪である可能性が高いということくらいは知っていた。2014年3月、私は中学一年生だったはずで、釈放された巖さんの姿はテレビで見たような気もする。しかし、その程度の認識しかなかった。
どうせ行くならちゃんと調べてから行こう、そう思って書籍などを読み漁るうちに、こんなにも酷い事件だということを初めて知り、愕然とした。そもそも、それまで、捜査機関によって意図的に冤罪が作られるという発想すらなかったのだ。冤罪事件とは、単なる「ミス」だと思っていた。こんなに酷いことが本当に現実にあるということを、信じたくないような気持ちだった。
現場近くに住んでいながら、私は何も知らないまま、この年になるまで呑気に生きてきたのだ。清水の人間としては、ちょっとした罪滅ぼしというか、ほんの少しの使命感というか、そんな思いもあって、思い切って初めての静岡地裁に足を踏み入れたのだった。
一人飛び込んだ初公判の日の朝、傍聴券も外れ、たくさんの人々の熱気に圧倒されて駿府公園を彷徨っていた私に、支援者の方々が声をかけてくださった。そして他の支援者の方々にもご挨拶させていただき、その後も一緒に行動しているうちに、気付けば記者会見まですべて見てしまった。そしてその延長線上で、いつの間にか、気付いたときには、支援者の端くれのようなものになっていたのだった。
あの日目にしたひで子さんの凛とした姿、弁護団の先生方の強い想い、支援者の皆さまのあまりのエネルギー、そのひとつひとつに、とてつもなく心を打たれた。すべてが、私の全く知らない世界だった。その世界に私も飛び込みたくなった。長い長い一日を終えて、すっかり感極まっていた私は、「私も何かしたいです!!」などと叫んでしまったのだった。あのときにすべてがはじまった。
通い続けた全15回の公判のうち、8回も傍聴券を引き当て、弁護団の先生方の素晴らしい勇姿も、検察の悪足搔きも、しっかりとこの目で見てきた。次第に皆さまとも顔見知りになっていき、本当に良くしていただいた。私も何かしたい、という思いから、11月にはブログやSNSなど、インターネット上での発信を始めた。傍聴記などを細々と書き続けているうちに、支援者や弁護団の方々も含め、少しずつ読んでくださる人数が増え、有難いお言葉をいただくことも多くなった。出会うことができた皆さまの存在には感謝してもしきれない。
浜松の袴田家にも、何度かお邪魔させていただいた。初めて巖さんにお会いしたのは昨年の11月のこと。それまで、ひで子さんがどうしてあれほど強くいられるのかがずっと不思議だった。しかし、巖さんにお会いして、その答えが何となくわかった気がした。巖さんには、こちらが自然と笑顔になってしまうようなあたたかさがあるのだ。
巖さんが、心は未だ妄想の世界に囚われたままだとしても、何も隔てるものがなく目の前にいる。直接お話しして、肌に触れることだってできる。その幸せをしみじみと感じた。あの日握った巖さんの手の感触を、私は死ぬまで忘れないだろう。

翌月12月にまた伺ったとき、巖さんはかなり饒舌で、「今おいくつですか?」と尋ねると、「儀式があって......」とお話しされ、「23歳になった」とおっしゃっていた。ダメ元だったが、「私も23歳なんです。お友達になってください」と言ってみると、「いいですよ。」とすぐに快諾してくださった。「いいんですか!?」と拍子抜けしてしまうくらいの呆気なさで。
あれから、巖さんが私のことを認識しているかはよくわからないのだが、少なくとも私にとっては、巖さんは同い年の大切な友達なのである。
事件そのものについて、或いはこの再審公判の行方について、もちろん強い関心はあった。しかしそれ以上に、この再審公判に関わる方々の人間的な魅力にどんどん惹かれていき、気付いたときにはすっかり足を取られていた。
あえて言葉を選ばずに言えば、ただ楽しかったのだ。普通に生きていたら関わることもなかったであろう、多くの方にお会いして、色々なお話を聞かせていただき、そのたびにたくさんのことを学んでいく日々は、常に刺激に溢れていた。こうして文章を書くことも、とても楽しい。一応「支援者」の端くれでありながら、逆に皆さまから支えられて今日を生きている。
最近では、有難いことに傍聴記を褒めていただくことも増えた。それ自体はとても嬉しいのだが、ジャーナリストのような報道をしようだなんてことは全くなく、ただ楽しくて書いているものなので委縮する。基本的には「今日は○○先生がかっこよかった!!」くらいの文章でしかないので、特に弁護団の先生からお褒めいただくと恥ずかしくて、いつも大いに焦っている。
せっかく傍聴できたのだからと、法廷の空気感をなるべくそのまま書くようにはがんばってきたつもりではある。発言を速記しながら、常に全員の表情に目を配り、感じたことはすべてメモし、似顔絵を描き、と誰よりも忙しなく動いていたかもしれない。傍聴したくてもできなかった方も多く、来られなかった方もたくさんいるだろう。少しでも傍聴したような気分になっていただけたら、私はそれがいちばんうれしい。

2024年5月22日。いよいよ迎えた結審の日。さすがの倍率の高さで傍聴券は外れ、ひで子さんと弁護団の皆さまを送り出したあとは、緊張しながら、ただ外から法廷内の様子に思いを馳せていた。
14時半頃、静岡市民文化会館で金聖雄監督の映画、「袴田巖 夢の間の世の中」を見ているときだった。ニュースで検察が死刑を求刑したということを知った。そのときは、ぎゅうと胸は痛んだが、まあそうだろうな、と思ったくらいだった。それで済むと思っていた。
しかし、だんだん心臓の音が速くなり、息がうまく吸えなくなり、手足が震え出した。スクリーンには、2014年当時の巖さんとひで子さんの、穏やかな暮らしが映し出されていた。今更もう一度「死刑」だなんて、絶対に許せなかった。これ以上、巖さんを見ていられなかった。会場の外へ逃げ出して、そのまま立てなくなった。危うく泣き叫んでしまうところだった。その場にいた方には、かなりみっともない姿をお見せしてしまった。
死刑を求刑することなど、もちろんわかっていたはずだった。直前には、死刑求刑を辞めるよう、静岡地検に要請に行ったりもしていたが、私はあの人たちに期待などしていなかった。どうせ死刑を求刑するのだろうと、ただそれだけのことだと思っていた。
それなのに、自分でもわけがわからないままに、ひどく取り乱していた。正義だとか倫理だとか、そんなものよりずっと根源的な、恐怖や気味の悪さ、吐き気のようなものたちだった。「死刑」というものに対して、本能的に、身体が拒絶反応を起こしていた。巖さんが味わった死刑への恐怖を、ほんの僅かだとしても、身をもって実感したような気がした。
当日の記者会見や打ち上げも、私は完全に気が動転していて、正直ほとんど覚えていない。本来ならば、ひで子さんと弁護団の皆さまを「おつかれさまでした!!!」と全力でお迎えするべきだったのに、おそらくうまく話すことすらできず、大変申し訳なく思っている。
無実の人間に対して死刑を求刑する、それがどれだけ重大な行為であるか、私は本当のところは何もわかっていなかったのだと、今になってつくづく思う。吹けば飛ぶような、検察の薄っぺらい有罪立証はまあ百万歩譲って許すとしても、薄っぺらい死刑求刑などというものが、この世にあっていいはずがなかった。私はその違いをうまく理解できていなかったのだと思う。根拠とする立証の脆弱さと、「死刑」という言葉のあまりのギャップに、身体が悲鳴を上げてしまったのだ。
死刑求刑の瞬間について、「聞こえなかった」とひで子さんは笑う。私は、本当は「聞かなかった」のではないか、とほんの少しだけ思っている。きっと否定されるだろうが。ただ、赤の他人である私が、傍聴していたわけでもないのに、あれほど取り乱すほどには、「死刑」という求刑は重かった。いくらひで子さんでも、まともに聞いていたら、平常心を保つのは難しいのではないかと思う。
2024年9月26日。必ず、無罪判決が出るだろう。それも、弁護団の皆様の素晴らしい弁論を踏まえた、完璧な無罪判決が。私はそう信じている。そして、それはもちろん、最高に喜ばしいゴールであるし、同時に、未来の司法にとっての大きなスタートでもある。
この痛ましい冤罪事件を、そしてやっと手にした再審無罪判決を決して無駄にせず、未来のために活かしていかなければならない。支援者としてこの再審公判を見届けたおそらく最年少の者として、凝り固まった司法に風穴を開けていく一端を担わなければいけない。巖さんの無実を信じて闘い続けた人々の思いを、学ばせていただいたすべてのことを、次の社会のために還元しなければならない。もちろんそう思っている。
しかし、そんな単純な話にしてしまっていいのだろうか、というもやもやした思いも、今になってふと湧いてくるのだ。例えば今後、再審法が改正されたとして、死刑制度が廃止されたとして、他の冤罪被害者が救済されたとして、巖さんの人生は報われたということにはならない。そもそも今の巖さんにとって、無罪判決は何かをもたらすのだろうか。つい最近、國井裁判長の言葉でうまく腑に落ちたのだが、巖さんの人生も、教訓や契機になるためにあったわけではないのだ。
本音を言えば、きっと私は、巖さんさえ幸せなら幸せなのだ。やっと本当の自由が訪れたことを理解して、心から穏やかに暮らしてほしい。囚われの身から抜け出して、“人間らしく”過ごしてほしい。もっと言ってしまえば、こんな事件に巻き込まれなければよかった。何事もなく、普通の人生を生きてほしかった。そんな、考えても仕方ないことばかり、ついつい考えてしまう。
58年という年月は、私には想像もつかないほどに長い。30歳から、米寿を迎えるまでの、途方に暮れるような長さだ。ひで子さんも、共に闘い続けた方々も、その分の歳を重ねられた。今年1月には西嶋弁護団長という大きな存在をも失った。どうして、どうしてこんなにも酷いことがあろうか。なぜこんなにも時間がかかってしまったのだろうか。
もちろんその背景には、再審法の不備であったり、根本的な問題はたくさんある。すでに失ってしまったものは仕方がないとして、二度とこのような悲劇を生まないために、本当はただ未来だけを見るべきなのかもしれない。ただ、どうしても、「仕方がない」では割り切れない自分がいる。58年という時を経て、ついに結審を迎えたという晴れ晴れとした思いと同時に、その年月分の苦しみもまた降りかかってくるようである。
今も年齢を尋ねれば、「23歳」と答える巖さん。プロボクサーとしてデビューした年齢だ。きっと巖さんにとって、いちばん思い出深く、輝かしい年だったのだろう。私は、この再審の初公判から結審までの間、ずっと23歳だった。私にとっても、「23歳」という年齢は、人生の転機と呼ぶべき重大な年齢であった。この偶然の一致も、もしかしたら何かの運命なのだろうか。ひょっとすると、23歳のままで時が止まってしまった巖さんから、バトンを託されたのかもしれない、なんてことを考えたりもしてしまう。
今月、7月末には、私は巖さんよりひとつ歳を取る。私はこれからも23歳から歳を重ね、寿命通りならばあと半世紀以上は生きるだろう。過去に起こってしまった取り返しのつかない過ち、それによって巖さんが奪われてしまったものたち、その痛みを抱きながら生きていく。私が例えば30歳になったとき、あるいは58歳になったとき、78歳、また88歳まで生きたとき、改めてその年月の重みを噛み締めるのだろう。
自分がこの先どんな人生を歩むのかは、まだ定まっていない。何かを成し遂げられる自信もない。ただ、「袴田事件」を背負いながらこの先の未来を生きていく、その覚悟でいる。巖さんやひで子さん、皆さまの想い、痛み悲しみも喜びも、血も汗も涙も全部抱きしめて、自分の人生を、最後まで歩いていきたい。今はただそう思っている。
虫唾:死刑求刑を受けて【袴田事件再審公判】
昨日、2024年5月22日、袴田事件の再審公判がついに結審の日を迎え、検察の論告求刑、弁護団の最終弁論が行われた。
14時40分頃、検察官が袴田さんに死刑を求刑したことを知った。釈放された後の、巖さんとひで子さんの日常を写した映画、「夢の間の世の中」を見ているときだった。
初めはただ、そうか、と思った。検察が死刑を求刑するなどもちろんわかっていたことで、そんなことで大した衝撃を受けるはずではなかった。
映画の中では、2014年の巖さんとひで子さんが、何気ない、ささやかな日々を過ごしていた。よく言えたな、と思った。胸が張り裂けそうに痛かった。
その痛みは次第に脈を打ち、心臓が速く動き出した。息を吸っても酸素がなくなった。目の前の景色がぐらりと揺れた。堪らなくなって会場から逃げ出した。しばらく、呼吸がうまくできなかった。ほとんど泣く寸前だった。本当は子供のように声を上げて泣いてしまいたかった。
わかっていた。わかっていたはずだった。しかし、本当の意味ではわかっていなかったのかもしれない。無実の人間に対して、同じ人間が、死を求めることの怖さ、悍ましさ、気持ち悪さ。正義だとか倫理だとか、そんなものたちよりもっと先に、身体が反射的に拒絶反応を起こした。「死刑」とはそれくらい重みのあるものなのだと、少しだけ身をもって知ったような気がする。
この再審公判を担当していた検察官4人のことを、私は一生忘れはしないだろう。もちろん、彼らは検察組織の代表として、職務を全うしたにすぎないのであって、それを責めるつもりはない。ただ私は、あなたたちを人間として心の底から軽蔑し続ける、それだけのことである。
1日経った今でも、胃の奥から何かが逆流してくるような気がする。それは単に、昨夜の打ち上げで少々呑みすぎたせいではない。あのときから、頭の中にずっと靄がかかっているような気がする。何を考えようと思っても、するりと逃げていく。とりあえず、ぐしゃぐしゃのままの感情を書き留めておこうと、こうしてパソコンに向き合っている今も、ずっと手の震えが止まらない。
今の自分の感情を言葉にするのは難しい。ただひとつ言えるのは、憤りのようなものとは少し違う。もっと生理的な、嫌悪、軽蔑、不快感、もやもやとした、身体を覆うような吐き気。気持ちの悪さが、もがいてももがいても離れてくれない。
まとまりのない文章ではあるが、今の気持ちを吐き出してみた。また改めて、この再審公判について書きたいことはたくさんある。ただ、今は気持ちを休めたい。落ち着き次第、またまとめようと思う。
今はこんな感情の中にいます。
乱文失礼いたしました。
「もう一度死刑と言えますか?」検察へ~結審直前の私の思い【袴田事件再審】
半年余り続いた再審公判も、5月22日でようやく結審を迎える。そしてそこで、検察官はおそらく巖さんに死刑を求刑する。
先日、支援団体の静岡地検への要請活動にも参加させていただき、死刑求刑をやめるよう申し入れを行った。やめろと言ってやめるだなんて端から思ってはいない。それがきっと、検察としての意地とかプライドだとか、そんなくだらないものなのだろう。それでも、結審の日が迫る今、思っていることを乱文ではあるが書き留めておく。
私は、今までの全14回の公判のうち8回も傍聴させていただき、弁護団の皆様の勇姿も、検察官の悪足搔きもたくさん見届けてきた。
その中で、死刑を求刑するということについて、初めて考えたのは今年1月の第7回公判の最中だった。西嶋弁護団長の訃報を受けた直後のことで、死というものを特に身近に感じていた時期だったからかもしれない。
傍聴しているときに急に、今目の前に座っている検察官たちが、巖さんを死刑にするべきと言うのだ、と気付いた。その瞬間に、さっと背筋に冷たいものが走ったのだった。
頭の中にいくつかの断片的なイメージが浮かんだ。巖さんの穏やかな顔。握った手のあたたかさ。「耐えがたいほど正義に反する」長期間の拘置から解放され、ひで子さんとともに暮らす、明るく居心地の良い部屋。
ただ、怖かった。巖さんが凄惨な強盗殺人を犯したと、空疎な主張を繰り返しているあなたたちこそ、一人の無実の人間を殺そうとしているではないか。その重みを理解しているのかいないのか、澄ました顔で座っている彼らが恐ろしかった。それは正義感から来る怒りのようなものではなく、ただ、人間としての根源的な恐怖だった。

担当されている検察官は、おそらく30代か40代くらいだろう。事件が起きた1966年当時に生まれていないのはもちろんのこと、巖さんの死刑が確定した1980年にすら生まれているか微妙である。
もちろん、どうせ上から押し付けられているのだろうと、ある程度同情的に見てはいる。だが、何もこんな人道に反することをするために、苦労して検察官になったわけではないだろう。正義を守るために、検察官という職を志したのではないのだろうか。それとも、組織の中で揉まれているうちに、そんなピュアな心などすでに毒されてしまったのだろうか。
私なら、自分の正義を曲げなければならないのなら、そんな仕事などすぐにでも捨ててやる。正義よりも守りたいものがあるのだろうか。お金か、地位か、名誉か、それとも。わからない、私にはまったくわからない。
本当にわからないことだらけだ。この期に及んで無理な有罪立証をすること、死刑求刑をすること、それがどうして検察のプライドなのだろうか。間違ったことを間違っていたと言えない、そんな恥ずかしいプライドなら捨ててしまえばいい。
1966年、それは現在23歳の私には想像もつかないほど、あまりにも昔だ。58年もあれば、社会文明も人間も、跡形もないほどまで変わる。30歳で逮捕された巖さんは、今年米寿を迎えられた。当時を知っている人は高齢になり、すでにこの世を去ってしまった人も多い。
もういいじゃないか、と私は思ってしまうのだ。そんな大昔のこと、もういいじゃないか、と。過去に違法な捜査や取調べ、ねつ造などが起こってしまったことは仕方がない。もう今更取り返しなどつかない。
だが、その責任は、今現役で働かれている検察官一人一人には一切ない。過去のことは過去のこととして、過ちがあったのなら素直に認めればいい、それだけの話ではないか。たったそれだけのことが、どうしてできないのだろうか。
事件から今年で58年、死刑確定からは44年になる。あまりにも長すぎる年月だ。再審開始までに長い年月がかかってしまったのは、他にも再審法の不備などさまざまな問題を孕んではいる。しかし、この約半世紀という時を経て開始された再審こそが、検察にとってはまさに変わるチャンスであったのではないか。これからでも決して遅くはない。間違っていたことは素直に認めて謝罪する、人として当然のことをすればいいだけの話だ。
警察も検察も、正義のヒーローだと思っていた。呑気にそう思っていられれば幸せだったのかもしれない。こうして袴田事件に関わらせていただくまで、こんなにも現在進行形で腐っているなんて知らなかった。警察や検察によって不当に人権を侵害される恐れがある国で、この先いったい何を信じて生きていけばよいのだろうか。
寿命通りなら、私はあと半世紀以上は生きる。これから結婚して、子供を産むかもしれない。もしかしたら孫や曾孫くらいまでできるかもしれない。自分自身の子供に対して、「けいさつをしんじたらだめだよ」なんて、私は言いたくない。そんな心苦しいこと、言わせないでほしい。
警察・検察がすべて悪だなんて言うつもりはない。一生懸命にお仕事に取り組まれている方々がいらっしゃるからこそ、毎日安心して生活できているのは間違いない。
ただ、単純に疑問なのだ。こんな組織に属していて、幸せなのだろうか。自分が正しいと思ったことを100%できているのだろうか。息苦しさを覚えたりしないのだろうか
取調べの可視化などが進み、昔ほど酷い冤罪はもう作られていないと信じたいが、根本的には1966年当時と何も変わっていないように思う。どうしてこんなにも変わらないのか、変わろうという動きが見えないのか、ひどく不気味に見える。
この再審の結果は、必ず凝り固まった司法を変えるための指針となるはずであるし、そうならなければいけない。巖さんが奪われたものはあまりにも大きくて、とても取り返しはつかない。それでも、巖さん、またひで子さんが、今も元気で長生きしてくださったからこそ、お会いすることができた。
お二人や、また何十年も支えてこられた弁護団や支援者の皆様の思いを、若い世代である私は、後世に受け継いでいく責任がある。私一人に何か大層なことができるかはわからない。ただ、この再審公判で見たもの、感じたこと、皆様から学ばせていただいたことすべてを、私は死ぬまで忘れない。袴田事件再審以後の日本を、全力で生きて、この目で見つめ続けてやる。
今、そんなことを考えています。